39.4


交通整理のおじさんがしきりにズボンを気にして、ずっと水道で洗っていた。どうしたんだろう。
春を着て水辺の生き物みたいに振る舞っていたせいかな、全然届かない。

「おれタワマンに住むために東京に出てきてん」

空中で言葉は薄れていくから、消える前に捕まえて飲み込んだそういう言葉が、いくつか私の中にある。誰のものかわからなくなることはあまり無い。
パッと見では分からないような形で置いておくこともあるし、そうすると元の形がわからなくなる。でもいいんだ。はっきりしないことは、あればあるほどいいし。どんな言葉も、どんな気持ちも、電車の発車音みたいに短いメロディになっちゃったら、それが一番いいんだよ。

世の中にこんなに人間がたくさんいるのか、と気付いたのはなんと最近のことだった。自分の物語を生きていたから、それ以外のものはそれ以外でしかなくて。
退化したのか進化したのか分からないけれど、体だけで生きているような感じになって、それからはこの世の全てが特別で、この世の全てが特別じゃなくなった。それが私が目指す世界だったから、退化でも進化でもどちらでも構わない。
私は、均したい。昔から。極端なバランスよりも均していたい。

子供が2人生まれる夢を見た。2人とも生まれた次の日には喋り出して、3日後には私の子供ではないことが判明した。私が産んだのになんだよ、と不貞腐れてでもちょっとほっとして、私はブラジルに住むことにした。

2024.3.21 変な漫画ばかり読んでいる

ここ一年くらいで出会う人たちは、少し乱暴というか粗野な奴らが多くて、でもだからと言って陰湿じゃないとは限らないよ。
男は基本的にみな陰湿なので、あまり関わらない方がいいんじゃないかと思う。
まあしかし、男でしか満たせないものがあるからわざわざ手間暇かけて男とくっつくわけだけだけれども、実に妙な設計だ。
女はいいよ、損得じゃなくて感情で動いていて、よく変化し、基本的に狂っている。みんな狂ってんだよな、女の人って。私の体感だとだいたい小4くらいから少しずつ狂い出すね、女は。
私はもうやっぱり最後は女がいいんじゃないかと思っていましたが、女の人はすぐ怒るのでやめて、男にしました。

独り寝の時に考えることはたいてい決まっていて、まず、飯。次の日の。その次に、翌日鳥と遊ぶ時間をどれくらい取れるか計算。そうしてると眠くなって寝てる。昔は不眠症みたいな感じだったんだけど、いつのまにかちゃんと寝るようになった。
夜になるとたまに人から電話がかかってきて、私は性格が非常に臆病なのでそういう急な電話ってお酒を飲まないと話せなかったんだけれども、最近どうでもよくなったのか3回に1回はシラフで普通に話せるようになった。いいね。図太くなってきた。おばちゃん化。
お酒もあんまり飲まなくなったな。飲むと疲れるし。
明日から早起きの練習をしなければならない。風邪ひきたくないな。

2024.2.14 バレンタイン大作戦

先週の帰り道、いつも同じ家の前を通る時に焦げたクッキーの匂いがしていた。本番に向けて毎晩練習していたのだろう。懐かしくて仕方がなかった。私もその匂いを知っている。
何度やっても上手くいかなくてヤケになった私が焦げたまま渡したクッキーを、当時好きだった人は焦げているね、苦いな、と言ってバリバリ食べていた。



今年の3月から、入籍にあたって戸籍謄本が要らなくなるらしい。でも結婚記念日は忘れにくい日がいいから、入籍は彼が提案してくれたバレンタインデーになった。大安だし。
私はバレンタインデーが大好きで、夫は甘いものが大好きなので、ちょうどいい。役所は空いていて、拍子抜けした。手作りのお菓子を人に渡すのは、高校生の時以来だった。

結婚を機に競馬をやめようと思っていたのだけれど、友達にやめないでよ!と言われて、思いとどまった。何かを一つ捨てないと、何かを手に入れてはいけないような気持ちになっていた。
そもそも結婚したからといって何かが手に入るわけではないし、生活も変わらないのに、この気持ちはなんだろう。

人は、結婚しようが子供を作ろうが、孤独なままだ。そうじゃなかったら困る。誰かと番うだけで孤独を奪われるのだとしたら、それは恐ろしいことだ。私は、安心したまま寂しくありたいのだから。
私たちの命が輝くのは私たちがみんな孤独だからだ、私たちは独りだからいつも新しく、楽しく、清新さを保っていられる。それぞれが独りじゃなくなったら、夫婦も家族も急に楽しくなくなるだろう。友達だって同じだ。
寂しいのはあなたがいるからで、寂しくないのはあなたがいるから。
私、ずっと忘れたくないよ。私たちが夫婦じゃなかったとしても、あなたや私がこの世に存在するということそのものへの祝福を。
でもね、それでも家族でいたい。家族が何なのか私にはまだ正確に分からないけれど、大きな災害が起きた時や、それぞれが外の世界で傷ついた時に、寄り添っていたいよ。

ねえ私が月に帰る時には、梯子をお願いね。私だけの庭師であり、私だけの騎士よ。
約束は一つだけ、私より先に死なないで。私を安心して孤独でいさせてくれるのは、この世であなた一人だけなのだから。

そよ風はペパーミント

有名なレストラン、高級な宿、旅行、宝石、何かを差し出す態度、機嫌を取ろうとする態度、私を欲しがる態度、この世のそういったもの全て、とにかく全てにうんざりだった。コロナでそういうものと接する機会が減って、自分も歳を取って、少しは健康になった。
私は、獲物では、無い。女は獲物では無い。女は人間だ。女は狼だ。女は砂漠だ。女は海だから、お前が入ってくるだけだよ。囚われるのはお前の方。私を御することができるのは、美しい女だけ。
私は何度も女に捕まったし、惚れてしまって、逃げたくても逃げられなかった。相手の庭で迷子になって、自分の家に帰れなくなった。でも彼女は呆れて私を吐き出して。それでいいと思った、彼女は女だから。私が鼻を啜ればティッシュをくれたし、あと、隣で笑っていた。女だった。


自分がそうされたら嫌だからこそ、人が人を欲しがってはいけないと常々思っている。
分かっていても、あ、この人欲しい、と思うことが稀にある。私も人間だから。でもそれはいつも良い結果を生まない。欲しい、となったら、どうなったって最後には飽きる。分かってる。でも永遠じゃないと嫌だ。永遠は存在しないって分かってる。でも嫌だ。ずっと欲しがっていたい。ずっと夢見ていたい。ずっと欲しがらせてくれる人が現れるんじゃないかって、夢見てた。
でももう分かってる。私はもう、欲しがりたくない。欲しがって何かが返ってきても、最後にはその人を悲しい気持ちにさせることだってある。だって欲望に返ってくるのは欲望だ。私は人に欲望されてそれを受け入れることが、人より得意で、大嫌い。だからいつも逃げ出してきた。でも、

その人の命がそこにあるだけで嬉しい、とお互いに感じる人たちとは、結局はずっと共に生きることになるのかもしれない。激しい気持ちや切ない劣情をそこに見出せるくらいには、鮮度を保って生きてきた。
もしはじまりには強烈な衝撃があっても、たとえ今はその余韻だとしても、その余韻が心地よければ一緒に生きていける。近くにいても、遠くにいてもいい。
一緒に生きていくというのは、求め合うことなく、欲することなく、同じ今を歩くことなのではないだろうか。その上で生まれる情こそが、荒々しく色めいていたり、もっとも危うかったりするものだと、私の心は今夜も実感しているよ。
日本代表戦の夜に香るエール350mlを2本、季節のたびに微笑みをひとつ、これらが私が本来受け取れる、愛の上限。
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マイ・プリンセス

こっそり塔から降りたら、密林の中で光る小さな石を見つけた。
ねえ恋、なんて寿命の短いドラッグなの?
たったひと月やそこらで薄剥がれてゆき、私が手にした恍惚が、酩酊が手を離れてしまう。あとは副産物。出会った衝撃の余韻が鳴ってるだけで、麗しくない。
日が経つと多幸感が薄れて、私の頭はいつも通り次のロマンスへの準備を始めて、でも私は行かないで!って言ってる。心を敏感に保って、夢を見続けてくれ、いつも私ばっかり夢で嫌なのに、やっと自分も体温のある人間だって分かったのに、また慣れちゃうの?もうシラフになんか戻りたくないよ!魔法よ解けないで。
今までもこれからも、立体的なロマンスはいらない。私の夫が鳥籠の中で言っていること、私には分かってる。さえずって、擦り付けて、血が出るほど引っ掻いたり抓ったりして、一緒に眠る。そういうこと以外は意味がないし、そういうことのために生活がある。生きている。
それなのに私たちふたり、きっとそのうち現実から見放されて、戻れなくなっちゃうね。でも、そうすればこんどは夢の中に戻れるのかも。
どっちが本当の場所か私には分かっているから、安心して手を繋いでいてね。つま先にキスして思い切りビビってていいよ。

恋人


東京駅の東北新幹線のホームで待ちきれずにビールを飲んでいたら、パタパタとフラットシューズで歩いてきた女にコンパスで太ももを刺された。
別に驚かなかった。その人は知っている人だったし、何日か前にその人は私にブチギレていたから。駅前のベローチェで。
薄い色のデニムに血が染みた。そんなには痛くない。どちらかといえば、周りの目の方が痛い。
何か喋り出すかな、と待っていたけれど黙ったままだったので、切符あるんですか?と聞いた。
すると私の目的地までの切符を黙って見せてきたので、私すぐ切符無くしちゃうから一緒に持っててください、と自分の切符を預け、そのまま一緒に私の地元へ帰った。

ほとんど最終電車だったように記憶している。いや、一本前とかかな、どちらにしても着く頃田舎は静まり返っていた。平日だったし、店もほとんどやってない。
実家に連れて行くわけにもいかないので、駅前の東横インに泊まった。
彼女は部屋でも黙っているつもりのようだった。めんどくせえ。その日は疲れていたし、他の問題も抱えていてとにかく一人になりたかった。連れてこなきゃよかった。せめて何か喋ってくれ。そうやってね、いつもこっちに察してもらおうとするところがさ……という気持ちが顔に出る前に、ねえ笑ってよ!可愛いね。と言うと、彼女は泣き出した。
私は、私の地元に一緒に来れたことが嬉しくて泣いているのかと勘違いして、愛おしくなり、明日は私の好きな場所を案内するよと言って抱きしめた。すると彼女は、私が大好きだった一重瞼の瞳で私を睨んだ。音がするくらい、キッ!と。それを見てつい口元が緩んだ。好きだ。
そのヘラついた口元を彼女は見逃さなかった。何笑ってんの?と、そのあとは罵倒に次ぐ罵倒で、2時間くらい泣きながら説教食らってさすがに堪えた。要するに、あなたは性格が終わっていて誰にでもいい顔をするだらしない人間なのだから、これ以上人と関わらずに生きてください、というような内容だった。
そこまで言われるほどのことはしていないし、人と関わらないってわけには……と思ったが、へえ。と言っておいた。
ビール買ってきてもらってたばこ吸って、寝た。起きると彼女はいなかった。手紙が置いてあった。読まずにホテルに置いていった。怖かったから。
実家に着くと父は、お前昨日何してたの、新幹線乗る前まで駅迎えきてって連絡してきてたじゃん。と聞いてきた。
痴情のもつれで帰れませんでしたと言えるわけもなく、着いてから夜通し飲んでいたとつまらない言い訳をした。この辺に夜通し飲める店なんかねえよ、と父は笑っていた。


最近よく電車に乗る。帰りの電車。その人がいた。あちらが先に気付いていたようだった。
私たちは、お互いの苗字も連絡先も知らない。当時は彼女の部屋でなんとなく時間を合わせて会っていただけだったから。バイト先で待ち合わせる時も、新幹線のホームに現れた時も、たぶん私が話した予定を全部覚えててくれて、それで会えていた。
それなのに、どうしてずっと連絡してくれなかったの?と一声目。なるほどあの手紙の中身は連絡先だったのか。そう言ってくれれば開けたのに。なんでも察してもらおうとするなよ、そういうところが……。
途中で降りて、公園で少し話した。機嫌がいいようだった。彼女はiPhoneで音楽を流し始めた。そのうち、このままカラオケ行こうよ!と言われたけど、意味不明すぎて断った。あの頃は会うたび湿っぽくなって、毎回私の素行をなじってきては泣いて謝ってくる人だったのに。それを期待してここにいるのに。頑張ってるんだね、とか言われちゃって。私は彼女にもらったジョシュアエリスのストールを巻いていた。なんとなく、もう二度と会わない気がしたので、今まで知らなかった上の名前を聞いた。そっちが先に言ってよ、と言われて、別に教えてもよかったんだけど、そのままにしておいた。
私があげたヴァンクリ、もう売ったでしょ?うん、似合わないんで。でもなんか箱だけ残ってます。そうなんだ、捨てなよ。うん。帰ったら捨てますね。すみません。
ストールをおしゃれな感じに巻き直してもらって、2人で公園を後にして、それぞれの日常にまた乗り込んだ。
彼女は去り際も笑顔だったので、私の心はついに動かなかった。

家に帰ると彼氏が先に帰っていて、皿を洗っていた。広い背中に寄せる頬は公園で冷えた時のまま、表情など見なくて済んだ。
人と一緒に住むとはこういうことだ、と、ひとつ丁寧に壊した。
そもそも孤独でなくなってしまったら私は私でなくなるから、ここでいいんじゃない?とニコニコ考えて、布団乾燥機で布団あっためて気持ちいいねと言い合って眠る夜、ついズボンを脱いだら、一生消えない気がしたコンパスで刺された傷跡もきれいに消えてることに気付いて、私は今を生きているだけではないと分かった。
戻ったここでちゃんと体やりたいから、頭殴って壊してくれ。積み重ねたものとかいらねー。溶かしたら残るから固体のまま攫っちゃっていい。忘れてしまうようなことの方が、忘れられないんだからさ。

ももちゃん

ももちゃんが亡くなった。

夜、いつものようにダイニングで過ごして、さて寝るかとももちゃんにご飯をあげようとした時、なんとなくおかしかった。
ご飯をあげようとしても、寝ていて起きない時は今までたくさんあったし、ほんとになんとなく、おかしいだけだった。

呼吸はしている。つついてみる。起きない。
上の窓から見てみる。目が開いてる。あ、変だ。と思った。
ダイニングの電気を暗くした。
ねえねえ、ももちゃんおかしいかも、具合悪いのかも、と言う。テーブルの上にケージを乗せて、上のカバーを取って2人で見てみる。
たまに痙攣するように少しだけビクッと動く。てんかんか?とも思ったけど、なんとなく違うなとも思った。
よく見ると下痢をしている。昨日まで元気だったのに。濡らした綿棒でお尻を拭いてあげようとすると、少し反応した。
対処法を検索する。保温、とか、基本的なことが出てくる。小動物がこうなった時に人間にできることは、実際ほとんど無い。文鳥が死ぬシミュレーションを何回もしているから知ってるはずだった、でもあがくしかなかった。
綿棒でお尻を拭きながら、ももちゃん、と呼ぶと、横たわっていたももちゃんが、少しだけ首を上げてこちらを見た。目が合った。挨拶だ、と思った。
私たちに挨拶を済ませたももちゃんは、また横たわった。
静かに、お腹が動かなくなった。
ピンク色だった口元や足がみるみるうちに紫になっていくのを見て、あ、死んじゃう、死んじゃった、と思った。不思議と目はキラキラ輝いたままだった。撫でる。瞼を閉じさせてあげたくて、でもなかなか閉じない。何度も撫でて、なんとか閉じた。
生きている時は、ストレスになると思ってなるべく体を触らないようにしていた。触る。温かく、なくなっていく。あっという間に死後硬直が起きた。小さな体だから。小さな体で、熱い体で生きていた。まだ魂がそこにあるのが分かった。ケージを戻して、いつもそうしているように巣箱で眠らせた。
明日、お墓を準備しなくちゃ。そう呟きながら自分の部屋へ行くと、泣いている私を見て、るいちゃんが首を傾げた。
ももちゃん死んじゃった、と言うと、ピ、と返ってきた。

ももちゃんは2年と数ヶ月生きた。ちょうど2年前、私が1ヶ月くらい地元に帰っていた時に、寂しくて、友達が欲しくて、ペットショップに走って衝動的に買ったのが彼女だ。
子供の頃は、いくら食べても太らない、スリムでおしゃまな女の子だった。おばあちゃんになってからも、たくさん食べた。最近は少し食が細くなっていたけれど、亡くなる前日はご飯を完食していた。
私がももちゃんの異変に気付いてから彼女が亡くなるまで、20分もかからなかった。
ももちゃんは、たぶん、待っていた。私がいつもご飯をあげる時間を知っていたから。それまで生きててくれた。看取らせてくれた。挨拶をしてくれた。強くてかっこいい子だった。

2年間、一緒に生きてくれてありがとうございました。あなたのおかげで文鳥たちが寝た後も、寂しくなかったよ。一人暮らしの間、夜にお化けが出るのを怖がらずに眠れていたのは、ももちゃんが毎晩回し車を回していてくれたからだったよ。
またどこかで会える日を楽しみにしているね、ももちゃん。