雑記

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誰が作ったかわからない西友七草粥を食べながら

 

コミュニケーションとか人間関係とか人格形成とかセックスとか恋愛とかの話を人としまくっているが、本を読んでもわからないことが人と話すとすぐに理解できたり、逆に人と話してもあまりはっきりと感じることのできなかったことが本を読むと小ぎれいに言語化されていたりして、当たり前のことなんだけど人間ってバランスが大切なんだな、とここ最近は特に実感する。

 

私は比較的温厚な人間だけど、人間には然るべき理由で怒りの感情を相手に伝える権利があることを知っているし、そのように振る舞うことにはあまり抵抗がない。

だからたいていの場合強い言葉や態度で誰かと衝突することはあれど、その過程でどちらかが傷つくことも想定内であり、なるべくならば傷つけずに済ませたかったとしてもそうもいかないこともあるということを理解しているつもりで、だから傷つくことも傷つけることも、真っ当な理由さえあれば悪いことだとは思っていない。別にわざわざ誰かを傷つけるつもりでそうしているわけではないけど、人間には傷つくべき時や傷つけられて然るべき時もあるということだ。ちこさんの言葉を借りれば、私もまた有機的な人間なのである。

しかし、体調やタイミングのズレやつまらない誤解などから、図らずも誰かを傷つけてしまうことがある。自分自身の弱さや未熟さから、傷つくべきではない人を傷つけてしまうことがある。私にはそれがいつも恐ろしい。それは間違いだから。その傷には意味がないから。その傷跡は悲しいだけだから。弱さは時に人を強くするけれど、私のこの弱さは、一体誰を守れるというのだろう。普段は息を潜める私の弱さは肝心な時に直接、もしくは間接的に作用して、傷つくべきでなかった大切な誰かを傷つけたりする。そう、例えば、数ヶ月前に出会った、繊細で美しい人とか。

 

私の弱さの原因を探るとき、それのほとんどが、私を愛せずに死んだ母親へのコンプレックスに帰結する。

私は、幼い頃から少し虚栄心のあるような女の子に執着されることが多かった。

支配やコントロールという言葉が私の人生に入ってきて数年経った頃、私が支配できるのは対象の相手ではなく、関係そのものであるこということを自覚し始めた。つまり、主導権を握ろうとしたのだ。

この関係を破綻させるのも持続させるのも、私次第。そういう不健全でフェアじゃない関係を望んだのは、女性、つまり母への復讐に他ならない。

もちろん全ての女性関係がそうであったというわけではなく、ごくごく稀に相手の心に大きな空洞を垣間見た時に、私の悪魔が顔を出したり引っ込めたりしていただけではある。

ましてや男性は復讐の対象ではないためその悪魔も身を潜め、男とは特に何かに偏った人間関係を築くこともなかった。

しかしある一定の条件を満たした時に、私の悪魔はその女たちのとある欲望につけ込むのだ。

他者承認。

手口は簡単、女を性的対象とみなすやいなやそれまで木偶の坊のようだった男性が急に頭の回転が速くなる様をよく見かけるが、それとほぼ同様な気がする。共感。承認。受容。その類。

私は人が大好きで人を信じることを美学としているため、元々の性質としてそういうコミュニケーションの取り方をすることが多いが、そもそも普通の人間はこんなカスのような手口には引っかからないし、ある意味安心して過剰供給できる。

でも彼女たちは違う。私は、彼女たちが承認の類を底なしの器で待ち構え渇望していることを理解しながら、普段のコミュニケーションで用いるのと同等量のそれらを与え、主導権を得ようとしたのだ。私が普通にしているだけで、彼女たちは嬉しそうにする。それが、ただ、面白かった。

 

かわいいよ。君は悪くない。周りが悪いんだ。君は頑張ってるよ。そのままでいいんだよ。みんな君を好きだよ。

 

すると、

 

いなくなったら嫌。私を嫌わないで。あなたみたいになりたい。あなたを独占したい。あなたが好きな人に嫉妬する。

 

たしかにその遊びによって自分に向けられる執着への嫌悪感はかなりあったが、私は幼い頃からの繰り返しでそれに慣れていたし、その執着が私に及ぼす害を回避する術を完全に忘れてしまっていたから、違和感は無視していた。

こんな関係は破滅の可能性を大きく孕むことをわかっていたし、そのまま彼女たちに与え続けることで母への復讐を果たした錯覚に陥っていた。文字を打っていて鳥肌が立つ、なんて姑息で邪悪な一面なのだろう。何も奪ってない。物も買ってあげたりする。相手には何も求めない。客観的に見れば愛を与えているかのような構図。でも違う、見返りを求めることなんかよりずっと倫理的に逸脱した、人の尊厳を無視した行動原理が、私の中には確かにあった。

普段の人間関係との明らかな違い。私は、その対象に、人格を見出していなかった。好きも嫌いもない。ただそこにあった穴を使って、承認を出し入れして、楽しく遊んだだけ。だって、たまにするその遊びが好きだったから。

こうして書くと、なぜ私に遊び人の男友達が多いのか容易に説明がつく。そう、つまり、ある意味では、同類だから。そういうことができてしまう悪徳を持ち合わせ、冷酷で傲慢であることを自分に許してしまっている、弱い一面を持ち合わせた人間であるから。

 

ま、そのような人間関係の中で表面的な行動や言動に踊らされ、私が支配しようと奮闘していたのは相手との関係の主導権のみであるから、その人自身の嫉妬や独占欲なんてコントロールできるわけもなく、最終的には感情任せに、大切な友人を1人失ったというわけである。とほほ。仲直りできたらいいけれど、なかなかそうもいかないだろう。

全ては自業自得、まあそもそもその友人とは対象の女性がいなければ存在しない出会いではあったのだけど、そのあとの私の迂闊で自惚れた行動が大切な人を悩ませることになったという事実については、無視して生きていくわけにはいかない。

男とか。女とか。そういうレベルでしかものを考えられない人たちを見下していたけれど、所詮私もセックスが関連しないだけで、植え付けられた女性蔑視の中に生きていた。もちろん女として生きていく中で身につけたありふれた男性蔑視も持ち合わせてはいるが、私の女性に対するコンプレックスは男性へのそれの比にならないほど巨大だ。

でもわかってる。母親も、女である前に、母である前に、人間だったっていうこと。だから私は知りたくて、近づいて、でもその芯に触れる前に死んじゃった。

死んじゃったものはしょうがない。だからもうやめにしよう。これで最後にしようと思った。誰かを傷つけてまで満たしたい復讐心じゃない。

私の心は、いつも音楽や草花や空に吹く風に祝福されているのだから。