2023.10.29 あなたとならば


個人的勝負レースだった最終レースでも取り返せず、友人2人と少し歩いたところの飲み屋に入ってぐずぐずとくだを巻いていた。
昼間は夏のように暑くて、11時ごろから遊んでいた私たちは、少し顔が日焼けして火照っていた。
具合が悪くなるほど落ち込んでいた私は、馬券が当たらなかったことを引きずっていることを2人に打ち明けた、そうするとみるみる体調がよくなり、まともに話せるようになった。悔しかったよ〜って甘えたい欲求を我慢してたら、お腹痛くなっちゃったんだね。まだまだ自分への理解が足りないね。

久々に会った1人の友人は、話せば話すほど私と真逆で面白い。私を銀幕スターか何かだと勘違いしているらしい。台本あるみたいに喋るじゃん、と言われた。
よく酒を飲み(その日も朝からハイボールをきめていた。私は二日酔いで、蕎麦を食べるのがやっとだった)、よく喋り、とにかくいろんなことを知っている人だ。
その人との会話の中で。

この人とならばやっていけるかもしれない、という思いは、希望なのだろうか。少なくとも、自分がそう思うときは降参や諦めの合図だろう。人との関係で何かを確信することを私は恐れている。気付いたらこうなっていた、の方が安心できる。
私は、この人とならば、と任せられるほど強くないなと思った。
自分のせいにしていないと不安で仕方ない。実際、ほとんどのケースでは私がだらしないからだめになるのだ。

誰といても一緒だろうとか、人はみんな同じだよとか私が言うのはね、いやだってさ、たとえばハムスターをペットショップで買う時に「この子だから一緒にいられるかもしれない」と考え巡らせて買うのか?って話なんですよ。
出会った相手とやっていくしかない。何も選べないし選んでいない。そこにあった石ころとそこにあったハムスターとそこにあった私は同じなんだよ。
あなたは私を選んでなんかいない。目の前に現れただけ。
あなたは、私が私だから私といるわけじゃない。
私がそこにいたから私といるんだし、私も同じ。
あなたと私が惹かれあっているとは、私にはどうしても思えない。自分の力じゃないって感じる。神様がそうしているだけだって思う。
だからいつ別れが来るとも限らないって思う、実際、あなたがあんなに好きだった人と忘れ合っていて、そんなに興味もない人と長く一緒にいたりするのは、感情なんぞで繋がれるほどご縁というものは甘くないからなのではないかしら。

でもね。それなのにどうして「あなたとならば、もしかしたら」という言葉にこんなに胸が締めつけられるのか。
いやあ、やはりまだまだ自分への理解が足りませんね。