恋人


東京駅の東北新幹線のホームで待ちきれずにビールを飲んでいたら、パタパタとフラットシューズで歩いてきた女にコンパスで太ももを刺された。
別に驚かなかった。その人は知っている人だったし、何日か前にその人は私にブチギレていたから。駅前のベローチェで。
薄い色のデニムに血が染みた。そんなには痛くない。どちらかといえば、周りの目の方が痛い。
何か喋り出すかな、と待っていたけれど黙ったままだったので、切符あるんですか?と聞いた。
すると私の目的地までの切符を黙って見せてきたので、私すぐ切符無くしちゃうから一緒に持っててください、と自分の切符を預け、そのまま一緒に私の地元へ帰った。

ほとんど最終電車だったように記憶している。いや、一本前とかかな、どちらにしても着く頃田舎は静まり返っていた。平日だったし、店もほとんどやってない。
実家に連れて行くわけにもいかないので、駅前の東横インに泊まった。
彼女は部屋でも黙っているつもりのようだった。めんどくせえ。その日は疲れていたし、他の問題も抱えていてとにかく一人になりたかった。連れてこなきゃよかった。せめて何か喋ってくれ。そうやってね、いつもこっちに察してもらおうとするところがさ……という気持ちが顔に出る前に、ねえ笑ってよ!可愛いね。と言うと、彼女は泣き出した。
私は、私の地元に一緒に来れたことが嬉しくて泣いているのかと勘違いして、愛おしくなり、明日は私の好きな場所を案内するよと言って抱きしめた。すると彼女は、私が大好きだった一重瞼の瞳で私を睨んだ。音がするくらい、キッ!と。それを見てつい口元が緩んだ。好きだ。
そのヘラついた口元を彼女は見逃さなかった。何笑ってんの?と、そのあとは罵倒に次ぐ罵倒で、2時間くらい泣きながら説教食らってさすがに堪えた。要するに、あなたは性格が終わっていて誰にでもいい顔をするだらしない人間なのだから、これ以上人と関わらずに生きてください、というような内容だった。
そこまで言われるほどのことはしていないし、人と関わらないってわけには……と思ったが、へえ。と言っておいた。
ビール買ってきてもらってたばこ吸って、寝た。起きると彼女はいなかった。手紙が置いてあった。読まずにホテルに置いていった。怖かったから。
実家に着くと父は、お前昨日何してたの、新幹線乗る前まで駅迎えきてって連絡してきてたじゃん。と聞いてきた。
痴情のもつれで帰れませんでしたと言えるわけもなく、着いてから夜通し飲んでいたとつまらない言い訳をした。この辺に夜通し飲める店なんかねえよ、と父は笑っていた。


最近よく電車に乗る。帰りの電車。その人がいた。あちらが先に気付いていたようだった。
私たちは、お互いの苗字も連絡先も知らない。当時は彼女の部屋でなんとなく時間を合わせて会っていただけだったから。バイト先で待ち合わせる時も、新幹線のホームに現れた時も、たぶん私が話した予定を全部覚えててくれて、それで会えていた。
それなのに、どうしてずっと連絡してくれなかったの?と一声目。なるほどあの手紙の中身は連絡先だったのか。そう言ってくれれば開けたのに。なんでも察してもらおうとするなよ、そういうところが……。
途中で降りて、公園で少し話した。機嫌がいいようだった。彼女はiPhoneで音楽を流し始めた。そのうち、このままカラオケ行こうよ!と言われたけど、意味不明すぎて断った。あの頃は会うたび湿っぽくなって、毎回私の素行をなじってきては泣いて謝ってくる人だったのに。それを期待してここにいるのに。頑張ってるんだね、とか言われちゃって。私は彼女にもらったジョシュアエリスのストールを巻いていた。なんとなく、もう二度と会わない気がしたので、今まで知らなかった上の名前を聞いた。そっちが先に言ってよ、と言われて、別に教えてもよかったんだけど、そのままにしておいた。
私があげたヴァンクリ、もう売ったでしょ?うん、似合わないんで。でもなんか箱だけ残ってます。そうなんだ、捨てなよ。うん。帰ったら捨てますね。すみません。
ストールをおしゃれな感じに巻き直してもらって、2人で公園を後にして、それぞれの日常にまた乗り込んだ。
彼女は去り際も笑顔だったので、私の心はついに動かなかった。

家に帰ると彼氏が先に帰っていて、皿を洗っていた。広い背中に寄せる頬は公園で冷えた時のまま、表情など見なくて済んだ。
人と一緒に住むとはこういうことだ、と、ひとつ丁寧に壊した。
そもそも孤独でなくなってしまったら私は私でなくなるから、ここでいいんじゃない?とニコニコ考えて、布団乾燥機で布団あっためて気持ちいいねと言い合って眠る夜、ついズボンを脱いだら、一生消えない気がしたコンパスで刺された傷跡もきれいに消えてることに気付いて、私は今を生きているだけではないと分かった。
戻ったここでちゃんと体やりたいから、頭殴って壊してくれ。積み重ねたものとかいらねー。溶かしたら残るから固体のまま攫っちゃっていい。忘れてしまうようなことの方が、忘れられないんだからさ。