2023.11.1 秋桜


今日は久々に朝焼けを見た。

どんな感情がこの心に生まれても、いつも忘れてしまう。
忘れたくなくて書き記しても、絵に残しても、忘れてしまう。無かったことになる。寂しさだけが残り、やがてその寂しさが重なって、何が寂しいのかすら分からなくなる。
だから私は繰り返す。悲しかったことも嬉しかったことも。だって忘れてるから。毎年秋の風にびっくりするのと同じく、君の顔を見るたびに新しくざわめく。
記憶力が無さすぎるのか。思春期に遊びすぎた代償なのか。脳に異常があるんじゃないかと本気で思う。

この10年間、忘れることを恐れすぎていた。
また思い出せばいいということすら、忘れてしまっていた。何も忘れたくなくて、それなのに全てがすり抜けていって、だから焦っていたのだろう。
今日は仕事が早く終わったから、すぐに帰ってビールを飲んで、17時ごろから2時間も夕寝をした。起きて、寝ぼけたまま触っていたら、思い出した。
忘れてしまったらまた思い出せるように目印をつけようと思ったが、忘れてもいいと思ってやめた。
世界がいつも新しいから、私は疲れる。でも、あなたはいつも新しいに決まっているから、これでいい。
忘れて、確かめて、忘れる。忘れずにずっと残るなら一人でいい。確かめたくなる。確かめたくなるから、また会うのだろう。
私は何かや誰かに飽きた経験がない。嫌になることはあっても、つまらないと思うことはない。たぶん毎秒新鮮だから。情に厚いのかと周りにも自分にも思われていたけれど、ただただ忘れっぽい性格なだけのようだ。
いつも頭の中がバタバタしていて大変だと思っていた。でも退屈しなくていい。外で何か起きなくても、自分の中で大変なことがいつも起きているから。
朝焼けを見て何を思ったか、あなたに触れて何を思ったか、私はもう思い出せない。でも今は慌ててない。本当に忘れた頃にまた、思い出しに行くよ。


2023.10.29 あなたとならば


個人的勝負レースだった最終レースでも取り返せず、友人2人と少し歩いたところの飲み屋に入ってぐずぐずとくだを巻いていた。
昼間は夏のように暑くて、11時ごろから遊んでいた私たちは、少し顔が日焼けして火照っていた。
具合が悪くなるほど落ち込んでいた私は、馬券が当たらなかったことを引きずっていることを2人に打ち明けた、そうするとみるみる体調がよくなり、まともに話せるようになった。悔しかったよ〜って甘えたい欲求を我慢してたら、お腹痛くなっちゃったんだね。まだまだ自分への理解が足りないね。

久々に会った1人の友人は、話せば話すほど私と真逆で面白い。私を銀幕スターか何かだと勘違いしているらしい。台本あるみたいに喋るじゃん、と言われた。
よく酒を飲み(その日も朝からハイボールをきめていた。私は二日酔いで、蕎麦を食べるのがやっとだった)、よく喋り、とにかくいろんなことを知っている人だ。
その人との会話の中で。

この人とならばやっていけるかもしれない、という思いは、希望なのだろうか。少なくとも、自分がそう思うときは降参や諦めの合図だろう。人との関係で何かを確信することを私は恐れている。気付いたらこうなっていた、の方が安心できる。
私は、この人とならば、と任せられるほど強くないなと思った。
自分のせいにしていないと不安で仕方ない。実際、ほとんどのケースでは私がだらしないからだめになるのだ。

誰といても一緒だろうとか、人はみんな同じだよとか私が言うのはね、いやだってさ、たとえばハムスターをペットショップで買う時に「この子だから一緒にいられるかもしれない」と考え巡らせて買うのか?って話なんですよ。
出会った相手とやっていくしかない。何も選べないし選んでいない。そこにあった石ころとそこにあったハムスターとそこにあった私は同じなんだよ。
あなたは私を選んでなんかいない。目の前に現れただけ。
あなたは、私が私だから私といるわけじゃない。
私がそこにいたから私といるんだし、私も同じ。
あなたと私が惹かれあっているとは、私にはどうしても思えない。自分の力じゃないって感じる。神様がそうしているだけだって思う。
だからいつ別れが来るとも限らないって思う、実際、あなたがあんなに好きだった人と忘れ合っていて、そんなに興味もない人と長く一緒にいたりするのは、感情なんぞで繋がれるほどご縁というものは甘くないからなのではないかしら。

でもね。それなのにどうして「あなたとならば、もしかしたら」という言葉にこんなに胸が締めつけられるのか。
いやあ、やはりまだまだ自分への理解が足りませんね。

2023.10.2 濡れた草の中の青い小さな花

地に足ついてる。
私は現実が全部夢で、地球はいつでも美しいと思う。
戦争が起きても、人を騙しても、何も奪えないし、心を騙すことはできない。
不可侵なものがある。好きだと思う心。美しいと思う心。生きたいと思う心。そこにあった思いは誰も奪い取ることができない。あの時のあの恋を帳消しにはできない。
例えば6年前にたった何日かだけ私の恋人だったあの生き物が、虫だったか猫だったか人だったかも正確には思い出せないけれど、愛し合っていたことだけは思い出せる。

私が今日30歳になるまでに心酔した幾人かとの甘い会話を、甘い夜を、誰も奪うことはできないのだから、そこに私たちがたくさん閉じ込められているのだから、そこで恋人同士だったのだから、それは永遠だ。
実際の永遠と今夜限りの永遠、女がどちらを好むかと言ったら言うまでもない。こればかりは、分からない方が悪い。
こんなにも愛されて、たくさんの美しい生き物たちに囲まれて、それでもなお求める、この心こそ私たちの本性で、それでいい。それでいいが、年貢の納め時というものもある。私の好い人はきっとそれが分かっている人だ。音楽が鳴り止むことはない。

素晴らしいじゃないか。
同じ時に冬ならば、同じ時に朝ならば。
同じ時に4月ならば、同じ時に12月ならば。
心や体が重なることだけが大事かというと、そうでもない。恋の本質は、今同じこの夜を過ごしているということなのだから。
私はジムモリソンと恋に落ちることはできないけれど、目の前にいる小鳥とは二人の世界を作ることが出来る。岩でもいいんだ。まだ出会ってなくてもいい。
時間が可視化される。現在という見えない時間を見えるものにするのがこの恋心、今私が生きているということをあなたが生きているということを証明するただ一つの混じり合い、恋という一言でまとめた方が私はやりやすいようなのでそういたします。





シルクのソックス

木嶋佳苗死刑囚の日記が、諸事情あって私の周辺で空前の大ブームだ。字がとんでもなく綺麗で、内容もなかなか読ませる。ただその綺麗な字がまたナルシスティックな感じで、奇妙な気分になる。自己愛性とか演技性の人物を目の前にした時特有の違和感。絶歌を読んだ時も似た気分になった。
私はエッセイや人のブログのようなものを自分ではあまり読まない方だと思っているのだけど、池袋母子餓死日記だけは大好きで何度も読んだ。人に読んでもらうために書かれたものではないから読めるのかもしれない。いや、この親子に特に思い入れがないから読めるのかもしれない。

人の日記を読むのが好きだという人がいる。けっこういる気がする。
なぜ?と聞いたら、好きな人のことをもっと知りたいから、と返ってくる。むずい。好きだから日記を読むんじゃなくて、日記を読むからどんどん好きになってるんじゃないかとすら思う。
私は、既に好きな人のブログとかはなかなか読めない。この人のことをこれ以上知りたいとか、そういうのがない。いや知りたくないわけではないんだけれども、目の前にしている時に偶然溢れてきたその人の何かをキャッチする、くらいの接し方じゃないと、なんだか罪悪感があるというか……贔屓のファンクラブ通信的なものも時間経たないと読めないし。

自分は、なんかの集まりで会う初対面の人に、Twitter見たよ!とかブログ見たよ!とか言ってもらえることがたまにあって嬉しいのだけれど、「え?!マジ??」みたいな反応になってしまう。最近は少し慣れたけど。
そりゃ公開しているんだから当たり前だし、人に見てもらうために公開しているんだからそれで正解なのだけど、私はその辺に干してある洗濯物とか、公園の花壇に苗が一個増えたの気付いてもらえるかな?というような感覚でブログを書いたりツイートをしているから、よく気付いたね!!!と驚き慄く。
そういうのも大きく構えてニコっと返せるようになりたい。時間差で嬉しくなるだけなって、これじゃダサいよな。
明日は久しぶりに本屋でもいくか。

2023.8.1 南風の愛撫に身悶えながら

たった1日だけで日帰りでも、夏に地元に帰るというのは意味がある。
父が病気と言うから帰っただけなので、夏らしいことは一つもせず居間で寝っ転がって窓から庭を眺めていただけだった気がする。
一応墓参りは行った。

うちの墓は鬱蒼たる林の中にあって、私はそこが大好きだ。そこはかとなく涼しくて、冷たそうな地面があって、死ぬほど蝉が鳴いてて、誰もいなくて、最高。
主役はミンミンゼミ。私が働いている大学構内で鳴いているセミたちとは別のオーケストラだ。
その日は狂い咲く紫陽花が不気味で、ここは夜に来たら怖いだろうなと思った。

今日は昼過ぎに嵐がきて、とんでもない勢いで酷暑をぶっ飛ばした。
仕事先では児童らがパニックになり、私も雷が苦手なので密かにパニクっていた。
嵐のあと、少し経って晴れ間が見えるとそれを合図にセミが一斉に鳴き出して、眩しくて疲れた。
夜自転車で帰ったら風が涼しくて涙が出た。秋のような、この!
こうやって毎日色んなことがある。疲れる。季節は、私には激しすぎる。
でも今日はなんとなく昼寝15分くらいで済んだ。いつもは帰ってくると2時間くらい眠ってしまうんだけれども。昨日よく寝たからかな。また風邪ひきたくないな。どうせ明日からまた灼熱地獄だ。

エル・プサイ・コングルゥ

2023年7月9日、
全部思い出した。
初めから決まっていた。
初めて行く札幌の時計台は、懐かしいくらい暑くて、安心した。
終演後時計台ホールを出るとさすがに外は涼しく、夜風は私の輪郭をもう一度定義した。

私は、偉大な芸術には包容力がある、としばしば感じている。そこに身を任せておけばいい、むしろ身を任せるしかなくなる瞬間があって、自分の境界を安心して溶かせる時間をくれる。
私が世田谷に引っ越した頃ずっと彼のライブを見に行っていたのは、そうやって安心したかったからだ。
そこでなら自分のくだらなさや静かさが分かって、ただの一生懸命生きてきた命だって分かって、お前はお前じゃなくても別にいい、どっちでもいいんだよ、と優しく。
ステージに立つその態度、その声、その目線、その体が、肩に力が入って動けなくなっていた私を名前のない生まれたばかりの生き物にする。
はじめかた、蹴っぽるみたくして取るリズム。昔の感覚が蘇って、知らない曲で泣いていた。正直、私は彼の曲のひとつひとつをそんなに知らない。私は理屈っぽくてしかもオタク体質なので、そういうのは珍しい。
それでもいつのまにか私の中で膨らんで、その心地よい圧迫の中、自分の境界を有耶無耶にできて、そしたらもう一度歩けて、ここまでこれた。彼の歌は私の特別な恩人だ。タイムカプセルみたいで、肩の力を抜くやり方を思い出させてくれる。
でかい木、虫がいる岩、冷たい鉄棒、朽木に座る時の音、そういうものと地続きで、でも、私の故郷のそういうのは全部なくなっちゃった。抵抗しなかったらちゃんと無くなっちゃう。
だからこれからもずっとずっとずっとずっと歌い続けてね。その身が続く限り。
お前が歌う最後の日まで、私は生き延びてそこにいたい。大好きな私のお星様。

会う



真っ青な空が見えた。東の方だ。
自転車でそこに向かう。夏でグラグラして、疲れてる。それでもあの曲がり角は気をつけないと。本当に危ないから。
待ち合わせる。君はもういる。暑さで不機嫌になってる。綺麗と思った。
ただ会っただけだった。ただお互いを見た。楽しくもなく、不愉快でもなく。はしゃぎもせず、怒りもせず。
蝉が怖い。湿った地面は見るだけでなんだか冷んやりする気がする。冷んやり。
帰ったら大相撲の中継が流れていた。電気もつけずに。
熱いシャワーを浴びて少し眠った。季節が染み込んで心が湿った。自分に体があると分かった。